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さて、中近東というとどんな国をイメージされるでしょうか?

 

恐らく、イラクやシリアのように紛争やテロで破綻した国のイメージが強いと思います。現在の国家破綻があまりに酷いせいか、サダム・フセインのような独裁者たちが往々にして美化されがちですが、果たしてフセイン政権時代のイラクはそのように美化できる時代だったのでしょうか?

 

現実には、強圧的な独裁政権に依存せずとも、クウェートやバーレーンのように穏健な王政の下で成功している国々は中近東にきちんとあります。中近東の他の穏健な国々との比較も兼ねて、本記事ではサダム・フセインが独裁者になるよりも以前に、彼が反体制派のメンバーだった時代のイラクについて考察してみたいと思います。

 

 

カーシム政権の転覆(1960年~1963年)

 

サダムが最初のカーシム准将暗殺計画に失敗、エジプトに亡命して以降、権威主義的なカーシムの統治に対してイラクでは将校たちの間でますます不満が高まります。頻発するクーデターはその都度秘密警察に摘発されて辛うじてカーシムは生存を続けますが、1963年2月、イラクの共産主義化やソ連への接近を恐れるCIAも関与したクーデターが再発します。

 

 

アーリフ大佐主導の反乱軍とカーシム准将側との銃撃戦

 

クーデターの首謀者はまたしてもアーリフ大佐で、彼と陸海空軍の将校たちが率いる反乱軍と、国防省の建物に立て籠もったカーシムや共産主義者たち、秘密警察との間で何日にも渡る銃撃戦となり、やがてカーシム側が敗北。カーシムと彼に最期まで従った2人の将軍は反乱軍の装甲車に乗せられ、国防省からテレビ局へと連行されます。

 

 

イラク全国の視聴者の面前で公開処刑されたカーシム准将

 

テレビ局でのアーリフ大佐たちによる見せしめ裁判の後、カーシムら3名はテレビスタジオで処刑されました。テレビカメラの前で処刑されたことで、見せしめ裁判から処刑に至る一連の映像はイラク全国の視聴者のお茶の間に垂れ流されることになりました。


国防省から連行され、テレビ局のスタジオ内で処刑された、カーシム准将(左)とタハ・アルシェイク・アハマド将軍(中)とファディル・アルマダウィ将軍(右)。テレビカメラの前での処刑の一部始終はイラク全国のお茶の間に垂れ流されました。(アラ・バシール(著)「裸の独裁者サダム」より抜粋)

 

 

エジプトから帰国後に共産主義者たちの虐殺に関与したサダム

 

反乱軍との市街戦で、1500人~5000人とされる共産主義者が命を落とし、政権転覆後に数か月に渡ってかつての王宮で拷問にかけられ、虐殺された共産主義者たちも同数に上るとされています。カーシム政権崩壊直後に帰国したサダムもまた、この虐殺に実行部隊員として関与したことは間違いありません。

 

 

バース党の分裂と党内抗争の時代(1963年~1968年)

 

カーシム准将を処刑して政権を奪取したバース党ですが、今度は党内が分裂して自分たち同士で抗争を引き起こします。カーシム政権崩壊からわずか9か月後の1963年11月、カーシム政権転覆時の首班の1人であるアフマド・ハサン・アル・バクル将軍が中心となったクーデターがアーリフ政権に対して引き起こされますが、クーデターは失敗し、バクルは投獄され、バース党も政権から排除されます。

 

 

アーリフ大佐の暗殺計画の失敗とサダムの脱獄

 

そして1964年9月、バース党員たちはアーリフ大佐の暗殺計画を立ち上げ、サダムも再び暗殺の実行犯の1人として名を連ねますが、またしても暗殺計画は事前に発覚して失敗。サダムも投獄されるものの、2年後の1966年には2人の看守を買収して脱獄に成功、バクルの側近としてアーリフ政権転覆に向けて暗躍するようになります。


アブドッサラーム・アーリフ大統領の暗殺未遂の実行犯として、投獄されていた1965年当時のサダム・フセイン(一番左)。(コン・コクリン(著)「サダム―その秘められた人生」より抜粋)

 

アーリフ大佐(弟)の航空機事故死

 

サダムが脱獄したのと同年の1966年4月、アーリフ大佐はイラク南部で航空機事故死。一説にはこの墜落事故もバース党によって仕組まれたとも言われますが、真偽は不明。彼の死後は、兄であるアブドッラフマーン・アーリフが大統領を引き継ぐことになります。

 

 

アーリフ大統領(兄)の失脚と亡命

 

このアブドッラフマーン・アーリフもまた、獄中で計画を立てていたバクルが中心になって引き起こした1968年7月のクーデターにより失脚し、ロンドンに亡命を余儀なくされます。このクーデターにてサダムは決行部隊の一隊長として、戦車で宮殿に乗り込むなど、バクルの右腕として重要な役割を担っています。

 

 

「邪魔者は殺してでも排除する」イラクの病理

 

反体制時代のサダム・フセインがやっているのは、暴力によって権力者の殺害を試みるという、テロリストのやり方そのものです。またカーシムやアーリフがやっているのもつまるところサダムと同じ、権力欲しさに邪魔者を殺害する試みでしかありません。

 

結局、イラクが崩壊したのは、「邪魔者は殺してでも排除する」という病的なやり方が恐怖政治、さらにはアルカイダやイスラム国の無差別テロにまで受け継がれてしまったことにあると言えます。

 

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参考文献

 

湾岸戦争やイラクの現代史についてさらに詳しく知りたい方には、以下の参考文献をお勧めいたします。

反米でも反イラクでもない客観的な筆致で書かれた、日本ではイラクの第一人者である酒井啓子氏の本書は、独立後の王政時代から流血クーデター、バース党独裁から個人独裁に至るイラクの政権の歴史、各時代に置かれたクルド人やシーア派の状況、湾岸戦争後に起きた反政府蜂起に対する弾圧、国連による査察や国内外の反政府活動の動向など、フセイン政権のイラクを俯瞰する上で、最低限これだけは読んでおくべき1冊です。

 

 

こちらは同じ酒井啓子氏による、そもそもサダム・フセイン政権とはどのような構造なのか、について掘り下げた著書になります。バクル大統領の時代からのバース党の独裁体制の変遷、アラブ・スンナ派偏重やティクリート派の位置付け、大統領親族間の権力争い、イラク国民議会の沿革と実際の民意の乖離など、フセイン政権の権力構造とそれを取り巻くファクターについて、詳しく知る上でお勧めです。

 

 

中東情勢に関して第一人者であるイギリスのジャーナリストの著書。基本的にサダム政権に批判的な立場なので、多少の偏りはありますが、かと言って決してサダムを悪魔扱いはせず、様々なルートで得られた各情報が信頼に値するかどうか、慎重に精査して事実を積み上げていることが見て取れます。また、王政時代やカーシム政権とバース党の対立など、サダムが政権を担う前のイラクの歴史をも詳しく知ることができます。

 

 

常にすぐ傍にいた主治医の回想録ということもあり、こちらもサダムを悪魔扱いする内容ではありません。むしろ読み取れるのは、傲慢さや高圧さと一緒に孤独感や気の弱さを併せ持つといった、サダムの複雑な人物像です。またイラクの不幸の原因をサダム1人に擦り付けず、彼の息子たちや側近たち、腐敗した政府の責任もきちんと記している点も、公平な書き方で評価できます。

 

 

こちらはサダムに無理やり愛人にされた女性の回想録。主人公はサダムの愛人扱いされることを嫌がり、自分の人生を破壊したサダムに嫌悪を抱いていますが、一方で初めのうちはサダムに恋心を持っていたように、サダムに対してどこかしら情を抱いており、決してサダムを悪魔のようには描いていません。サダムよりもむしろ、上述の主治医の回想録と同様、イラクの政府の腐敗や、サダムの長男ウダイの残虐さの記述の方が際立っています。

 

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サダム・フセインのような強圧的な独裁者による恐怖政治などなくとも、穏健な王政の下で平和的に成功している国は中近東にきちんとあります。その代表例であるバーレーンとクウェートの見所については、下記記事をご参照ください。

 

 

 

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