旅行や出張でフィリピンに行かれた際に、太平洋戦争の話題や関連スポット訪問の際の参考になればと思い、歴史考察の記事を書かせて頂きます。

日本軍の予想を大幅に超えた捕虜と避難民

1942年4月9日にバターン半島の米比軍が降伏した当初、日本軍はバターン半島にいる米比軍を約2万5000人~3万5000人と推定していましたが、実際に半島にいた兵士と市民は遥かに多く、1万2000人の米軍将兵、6万5000人のフィリピン軍兵士、そして2万5000人のフィリピン人避難民の、合計10万2000人にも及びました。

国際法への無知と物資の不足が生んだ「死の行進」

捕虜と避難民の多くが既にマラリアやデング熱やアメーバ赤痢などの病気にかかり、かつ飢餓に陥っていました。また日本軍は国際法に無知で、玉砕を正義とし、捕虜として投降することを禁じる軍規を敵側にも当てはめて考えていたため、これだけ多数の捕虜を予想できず、捕虜のための食糧もトラックも殆ど持ち合わせていませんでした。飢餓と病気で体力が衰退している捕虜たちを常夏の炎天下、マリべレスからサンフェルナンドにあるオドンネル基地まで88キロに渡って休息も水を飲むことも許さずに歩かせたため、当然ながら死者が続出する結果となりました。これが「死の行進」と呼ばれるもので、米軍兵士約1500人、フィリピン軍兵士約2万9000人が犠牲になったとされていますが、犠牲者数については今なお色々な異論があります。

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バターン半島陥落後に起きた「死の行進」(コレヒドール島のマリンタ・トンネル内で撮影した記録映像)。

組織的・計画的な虐殺などではないが

公平を期すために言っておくと、戦後にGHQは「死の行進」を南京大虐殺と同じく日本軍による組織的な虐殺とみなしましたが、決して組織的なものでも計画的なものでもありません。日本軍側には捕虜に十分な食糧や医療、輸送手段を与える余裕がなかったからです。バターン半島攻略戦の司令官である本間雅晴中将が、虐殺を指示したとされて処刑されましたが、明らかに濡れ衣で、マッカーサーの復讐感情からスケープゴートにされた典型事例です。むしろ問題なのは、鬼畜米英思想に基づく米比軍への蔑視や復讐感情に基づく、一部参謀による越権行為としての捕虜への暴行や虐殺です。しかしバターン半島の窮状自体が日本軍の侵攻によって生じたわけですし、無計画なものであれ、実際の犠牲者数がどうあれ、戦争犯罪であることには変わりないのですが。

戦後の日本を再出発させた東南アジア諸国の赦し

既に敗戦から70年以上の年月が経過しているにもかかわらず、敗戦後遺症を未だに引きずっていると思えるような、被害者意識や反米意識ばかりに満ちた主義主張が日本では今なお目立ちます。しかし太平洋戦争の圧倒的多数の被害者は、フィリピンを始めとするアジアの人々です。「死の行進」や市街戦下のマニラで起きた大虐殺などにより、戦後のフィリピンや東南アジアでは中国以上に反日感情・日本軍への復讐感情が強かったわけですが、戦後の東南アジアの首脳たちは寛容な心で日本軍の戦犯たちの多くに恩赦を与え、その後半世紀に渡って日本との間に友好的な関係を築いてくれました。戦後の日本の再出発が、フィリピンや東南アジア諸国の寛大な赦しによって成り立ったことは、決して忘れてはならないことだと思います。

参考文献

バターン半島での日本軍と米比軍の戦闘、半島陥落後に起きた「死の行進」の詳細については、以下4冊の参考文献をお勧めいたします。



太平洋戦争〈上〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11


太平洋戦争〈下〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11



いずれもコンパクトな新書でありながら、フィリピンの歴史、マッカーサーとフィリピンや日本との関わり、太平洋戦争を全般的に知るうえで有益なので、一読をお勧めいたします。