旅行先で太平洋戦争の話題になったり、関連スポットを訪問される際の参考になればと思い、歴史考察の記事を書かせて頂きます。

敗走を重ねる中で変容した日本軍の戦争方式

日本軍が戦争に踏み切った前提はいずれも欺瞞と矛盾の満ちたものばかりで、開戦をしたこと自体がそもそも間違っていたものと言えます。とは言え、緒戦こそ日本軍は多大な戦果を挙げました。1942年5月までのわずか6か月で、東南アジア全域と南太平洋地域を含めて東西4000キロ及ぶ地域を制圧した時期が、日本軍の優勢さのピークだったと言えるでしょう。しかし6月に連合国軍がオーストラリアから反攻に転じ、同月にミッドウェー海戦とガダルカナル島で敗北して以降、日本軍の戦争方式は悪い意味で大きく変容したと言えます。その代表例が玉砕戦と特攻隊です。

玉砕戦

外国語に「玉砕」に相当する言葉はありません。近いニュアンスで言えば「全滅」でしょうが、「玉砕」という言葉には、全員が戦死することを美化・推奨するような響きがあります。

日本軍が連戦連勝だった時期には、全滅の前に退去することが大前提でした。しかしガダルカナル島やニューギニアでの敗北以降、マーシャル諸島(44年2月)、マリアナ諸島(44年8月)、レイテ島(44年10月)、硫黄島(45年3月)と離島での玉砕戦が大前提とされるようになり、救援も撤退もせずに最初から見殺しにするようなパターンとなりました。

挙句には民間人も玉砕突撃に加わるようになり、沖縄戦(45年6月)では民間人の犠牲者が兵士の犠牲者数を上回るようになります。玉砕を避けようとすれば投降しかありませんが、日本軍にとって投降は絶対にタブーであり、民間人でも敵の捕虜になることは許されませんでした。米軍の日本本土への空爆が行われ始めると、日本軍は「一億総玉砕」をスローガンとする本土決戦を連呼しており、それが本当に実現していたら犠牲者数は原爆の犠牲者どころではなかったでしょう。

特攻隊

こちらは玉砕戦と表裏一体になっているもので、44年10月のレイテ島の戦い以降に始まりました。緒戦で日本軍が連戦連勝していた時期にも決死隊はありましたが、最初から自爆を前提にする特攻隊とはニュアンスが大きく違います。少なくとも決死隊では生存して帰ってくることが前提でしたし、作戦の効果が薄いと判断されれば、決死隊作戦を撤回するだけの良識は緒戦時には陸海軍首脳部も持っていました。

しかしレイテ島の戦い以降、特攻隊は陸海軍首脳部から組織的に課されることになり、45年8月の終戦まで約1年に渡って続けられることになります。特攻用の専用兵器も開発され、例えば人間爆弾「桜花」の場合には2トン爆弾にエンジンがついた構造で、車輪はなく、一度出撃すれば生還は不可能でした。

この特攻は米軍にとっては信じ難い作戦で、当初こそ効果はあったものの、米軍がレーダー網を駆使して迎撃態勢を整えたことで効果は下がり、特攻隊は目標である敵艦船に突っ込むどころか、近づくことすら難しくなりました。敗戦までの約1年で航空特攻だけでも約4000人の若者が犠牲になり、人間魚雷や特攻ボートを使った水上特攻でも同数の若者が犠牲になっています。

犠牲を美化し増大させた日本軍首脳部の責任は大きい

こうして見ると、戦場で亡くなった日本兵たちの犠牲が、日本軍首脳部の責任であることは間違いなく、米軍によっての被害という以上に、日本軍の首脳部によって多くの兵士たちが死ななくても済んだはずなのに死に追いやられたという側面が強いように思えます。フィリピン以降に続く日本の本土への空爆や原爆の投下が、アメリカによる戦争犯罪の被害であることは間違いないものの、そこまで犠牲をもたらしてもなお戦争を続けようとした、軍首脳部による被害であることも否定しようがありません。

参考文献

玉砕戦や特攻隊に限定はされませんが、左右のイデオロギーを排して、太平洋戦争の経緯について淡々と記した良書としては以下をお勧めいたします。

太平洋戦争〈上〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11


太平洋戦争〈下〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11



特攻については、以下の2冊を入門書としてお勧めします。



いつから誰によって特攻隊が始められ、組織化されるに至ったのか、特攻を前提とした兵器の開発など、入門書としてはかなりの深い内容となっています。

左右のどちらにも偏らず、イデオロギーを排して太平洋戦争についてまとめた文献としては、以下の秦郁彦氏の著書と編著が参考になります。

現代史の争点 (文春文庫)
秦 郁彦
文藝春秋
2001-08




どちらの書も、太平洋戦争や日中戦争を始めとする、何かと揉めやすい昭和史については、こういう議論をしましょうというお手本のような優れた内容です。