旅行や出張でフィリピンに行かれた際に、太平洋戦争関連の参考になればと思い、歴史考察の記事を書かせて頂きます。

マッカーサーもケソン大統領もフィリピンから逃亡・脱出

1941年1月~1942年1月にかけ、バターン半島とコレヒドール島での苦戦が深まり、フィリピン内部での亀裂も深まるという圧倒的に不利な状況の末に下された決断は、コレヒドール島からの脱出・逃亡でした。まず、1942年2月の17日~20日にかけて、ケソン大統領をはじめとする閣僚とその家族が米潜水艦でコレヒドール島を脱出し、オーストラリアへと逃亡します。そして翌3月11日にはマッカーサーとその家族(ジーン夫人、3歳の息子アーサー、フィリピン人家政婦アチュー)、バターンボーイズの中から選ばれた17名の将校が4艇の高速魚雷艇(PTボート)でミンダナオ島を経由してオーストラリアへと逃亡しました。

バターン半島もコレヒドール島もついに陥落

最高司令官が逃亡する中、バターン半島とコレヒドール島の兵士たちはなおも日本軍に対して戦いを続けますが、1942年4月9日、ついにバターン半島の米比軍は日本軍の前に無条件降伏します。そして、バターン半島南部には日本軍の大砲が設置され、コレヒドール島への攻撃がさらに激化します。コレヒドール島は空爆や海上からの攻撃には強固なものの、バターン半島のような陸上からの攻撃には防御態勢が弱いという弱点がありました。コレヒドール島の弱点を巧みについた日本軍の攻撃が続き、5月2日、日本軍は5時間に渡って3600発の砲弾をコレヒドール島に打ち込み、そのうちの1発がコンクリート壁をぶち抜いて弾薬庫に直撃し、マリンタ・トンネル内で大爆発が起きました。4月9日以来の日本軍の空爆と砲撃で、少なくとも600名以上の米比軍の兵士が犠牲になりました。そして5月5日、ついに日本軍がコレヒドール島への上陸を開始し、翌6日には日本軍は全島を完全に制圧。遂にコレヒドール島の米比軍も日本軍に降伏します。そして4月~6月にかけては、フィリピン南部のビサヤ諸島やミンダナオ島でも日米の激戦が繰り広げられていましたが、6月には両島の全ての米軍部隊が日本軍に降伏しました。

敵前逃亡が後の太平洋戦争の行く末を決することに

半島にいる無数の兵士がなおも戦い続ける中、事実上同胞を見殺しにする形で敵前逃亡をしたことは、たとえルーズベルト大統領からの厳命であったとしても、負けず嫌いで尊大で頑迷なマッカーサーにとって、生涯最大の汚点であり屈辱であることは間違いないでしょう。ただ一方で、歴史に「もしも」はないと言いますが、そのままコレヒドール島に残っていればやがて彼も日本軍の捕虜となったことは間違いなく、下手をすれば処刑されていた可能性もあり、そうなると太平洋戦争のその後の展開自体が変わっていたでしょう。無数の兵士たちに非難され、敵前逃亡したとはいえ、オーストラリアに逃れたことが、その後の日本軍への反攻のきっかけとなり、太平洋戦争の行く末を決定したのだと言えます。

参考文献

マッカーサーとフィリピンの深い関わりについては、以下の参考文献をお勧めいたします。


コレヒドール島やバターン半島の戦闘の詳細、オーストラリアに逃亡して以降の動向、日本のGHQ最高司令官としての取り組み、さらにはフィリピンの完全独立やケソン大統領の立場に理解と共感を示す一方で、必ずしも人格者とは言えず、自分の過失や責任を一切認めずに尽く他者に責任転嫁・自己弁護する頑迷な性格など、マッカーサーの人物像についてもかなり知ることができます。観光でコレヒドール島に行かれる方には、できれば同書を読まれてから観光されることをお勧めします。

フィリピンに限定はされませんが、特定のイデオロギーに偏らず、淡々と太平洋戦争全体の経緯を分かりやすくまとめた書籍としては、以下をお勧めいたします。

太平洋戦争〈上〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11


太平洋戦争〈下〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11