旅行やお仕事でフィリピンに行かれた際に、太平洋戦争の話題になったり、関連スポットを訪れた際の参考になればと思い、歴史考察の記事を書かせて頂きます。

日本軍との激戦で疲弊するバターン半島とコレヒドール島

1941年12月29日から始まった日本軍の空爆により、バターン半島とコレヒドール島の米比軍は長く苦しい戦いを強いられることになります。それでもマッカーサーやコレヒドール島の米軍司令部は知力を尽くし、マッカーサーたちの定期的な現地視察と指示の下、バターン半島に撤退した米軍部隊も日本軍相手に善戦を続けますが、長期戦によってバターン半島では避難民が増加し、食糧不足と水不足がバターン半島とコレヒドール島の両方で深刻化し、昼食はなくなり、それに伴い飢餓と栄養失調が深刻化します。マラリアの発生や医薬品の不足により、疾病も蔓延するようになります。

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コレヒドール島のフェリー発着場付近から眺めたバターン半島(コレヒドール島訪問時に撮影)。

バターン半島の食糧事情の深刻化と高まるマッカーサーへの不満

1941年1月以降、バターン半島にはマラリア、アメーバ赤痢、デング熱等の病気が蔓延し、避難民の流入がさらに増えたことで、半島にいる米比軍の食糧は底をつきかけていました。しかもマッカーサーが半島の食糧をコレヒドール島へ移送するよう命じたことが、半島の食糧事情をさらに悪化させました。1月のバターン半島の現地視察以来、マッカーサーはバターン半島への定期的な視察をしなくなり、コレヒドール島のマリンタ・トンネルになす術もなく籠るようになったことが半島の兵士たちの士気をさらに低下させ、不満を抱く兵士たちによってマッカーサーは「ダグアウト・ダグ」と侮蔑され、彼を嘲笑する歌まで流行するほどに、マッカーサーへの支持は下がっていきます。

日本軍によるコレヒドール島への更なる砲撃と空爆

1942年1月以降、マニラ南方のカビテ海軍基地に日本軍の大砲が多数設置され、コレヒドール島に対しても連日のように日本軍による砲撃が行われました。また、日本軍による空爆も激化し、1発の直撃弾で30名以上が殺傷される惨事が、連日のようにコレヒドール島では起こるようになります。マリンタ・トンネル内には昼夜問わず傷病兵が担ぎ込まれ、呻き声を上げていましたが、医薬品も医者も不足しているので対処も不十分でした。

マニュエル・ケソン大統領も重病人に

食糧不足や疾病の苦しみに直面したのは兵士たちだけでなく、マッカーサーやマニュエル・ケソン大統領も同じでした。マッカーサーの体重はコレヒドール島に来てからの8週間足らずで11キロも減り、コレヒドール島に移住する前から元々結核を患っていたケソン大統領の病状はさらに悪化し、日中は車椅子が欠かせず、夜は激しく咳き込み、医薬品が不足する中でモルヒネの投与が欠かせなくなりました。傷病兵を除けば、ケソンはコレヒドール島の再重病人となっていました。

やがて訪れるコレヒドール島とバターン半島の陥落

こうして日本軍によって不利な戦闘を強いられる中、コレヒドール島もバターン半島も、やがては陥落を迎えることになります。

参考文献

マッカーサーとフィリピンの深い関わりについては、以下の参考文献をお勧めいたします。


コレヒドール島やバターン半島の戦闘の詳細、オーストラリアに逃亡して以降の動向、日本のGHQ最高司令官としての取り組み、さらにはフィリピンの完全独立やケソン大統領の立場に理解と共感を示す一方で、必ずしも人格者とは言えず、自分の過失や責任を一切認めずに尽く他者に責任転嫁・自己弁護する頑迷な性格など、マッカーサーの人物像についてもかなり知ることができます。観光でコレヒドール島に行かれる方には、できれば同書を読まれてから観光されることをお勧めします。

フィリピンに限定はされませんが、特定のイデオロギーに偏らず、淡々と太平洋戦争全体の経緯を分かりやすくまとめた書籍としては、以下をお勧めいたします。

太平洋戦争〈上〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11


太平洋戦争〈下〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11