旅行やお仕事でフィリピンに行かれた際に、太平洋戦争関連の話題になったりそういう場所に行かれた際の参考になればと思い、歴史考察の記事を書かせて頂きます。

日本軍の侵攻とマニラの無防備都市宣言

日本軍の急襲に伴い、1941年12月24日、マッカーサーも米軍司令部もマニラからコレヒドール島へと撤退。米軍部隊の殆どがバターン半島(コレヒドール島から海を3.2km隔てた半島)に撤収し、マニラはマッカーサーにより無防備都市として宣言されます。

戦時下フィリピンの臨時首府となったコレヒドール島

マッカーサー主導の米軍司令部はマニラからコレヒドール島のマリンタ・トンネルに移転され、さらには、マッカーサーや米軍司令部の強い要望により、当時のコモンウェルス大統領であるマニュエル・ケソンとその家族もマニラからコレヒドール島に退避しました。国家元首の移住に伴い、必然的に閣僚機関や首都機能もマニラから移転し、このトンネルはコモンウェルス政府の臨時首府としての役割も果たすようになります。また、マッカーサーの家族(ジーン夫人、後にジャズ・ピアニストとなる当時は3歳の息子アーサー、中国系フィリピン人女性である家政婦アチュー)もこの島に移住しました。

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コレヒドール島のフェリー発着場の徒歩圏内に立てられたマッカーサーの銅像(コレヒドール島訪問時に撮影)。

日本軍の空爆によりコレヒドール島は激戦地に

マッカーサーたちの逃亡を察知したことによる1941年12月29日からの日本軍の空爆により、コレヒドール島は激戦地となりました。ヨーロッパやオーストラリアを主眼とする当時のルーズベルト大統領と米政府の方針により、空軍と海軍の残存する主力部隊の多くがフィリピンから撤退してしまい、アメリカ本土からの援助も援軍も全くというほど受けられず、マッカーサーたちはコレヒドール島とバターン半島で孤立無援の苦しい戦いを長く強いられます。今後の見通しが暗く先行きが見えないことから、マッカーサーは家族、司令部の部下たち、ケソン大統領や閣僚たち、さらにはアメリカ本土の政府とのやり取りを連日欠かさず続けていくことになります。

参考文献

マッカーサーとフィリピンの深い関わりについては、以下の参考文献をお勧めいたします。


コレヒドール島やバターン半島の戦闘の詳細、オーストラリアに逃亡して以降の動向、日本のGHQ最高司令官としての取り組み、さらにはフィリピンの完全独立やケソン大統領の立場に理解と共感を示す一方で、必ずしも人格者とは言えず、自分の過失や責任を一切認めずに尽く他者に責任転嫁・自己弁護する頑迷な性格など、マッカーサーの人物像についてもかなり知ることができます。観光でコレヒドール島に行かれる方には、できれば同書を読まれてから観光されることをお勧めします。

フィリピンに限定はされませんが、特定のイデオロギーに偏らず、淡々と太平洋戦争全体の経緯を分かりやすくまとめた書籍としては、以下をお勧めいたします。

太平洋戦争〈上〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11


太平洋戦争〈下〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11