フィリピン、特にコレヒドール島などの太平洋戦争の舞台になった場所に旅行された際の参考になればと思い、歴史考察の記事を書かせて頂きます。今回はマッカーサーとフィリピンについて。

日本よりもフィリピンと遥かに深い関わりを持つマッカーサー

マッカーサーと言えば敗戦後の日本を統治したGHQ司令官ですが、年月でも深さでも日本よりフィリピンとの関わりの方が圧倒的に大きい。彼とフィリピンとの関わりは、古くは彼の父親であるアーサーが1899年に軍事総督として米西戦争後のマニラ占領に関与し、1903年には自身も23歳の若さで陸軍少尉としてフィリピンに赴任したことに始まります。1922年からの3年間はフィリピン軍管区司令官として、1928年からの2年間はフィリピン方面軍司令官として赴任します。

後のコモンウェルス大統領たちとの深い親交

彼の父アーサーを知る現地の人たちからは、「マッカーサー若将軍」と呼ばれ、当時の新進政治家であるマニュエル・ケソンやセルヒオ・オスメーニャ(いずれも後のコモンウェルス大統領)らと親交を深めます。そして1935年、55歳になったマッカーサーはフィリピンに第2の人生を見出し、マニュエル・ケソン大統領の軍事顧問に就任し、フィリピン防衛計画の作成、フィリピン陸軍の攻撃能力の強化などに取り組みますが、1941年に太平洋戦争が勃発して以降は、米極東軍司令官として戦争に巻き込まれていくことになります。

フィリピンでの太平洋戦争開始とマニラの無防備都市宣言

1941年12月8日、ハワイの真珠湾やマレー半島のコタバルを急襲したのと同日、日本軍がルソン島を急襲、マニラ近郊のクラークフィールド米空軍基地を空爆で壊滅させ、同月10日にはルソン島に上陸し、太平洋戦争が始まります。フィリピンを急襲した当初、日本軍の側ではマニラやルソン島が主戦場になると想定していたようですが、米軍の側ではマッカーサーの進めるフィリピン全土の要塞化が日米開戦日に間に合わず、かつ真珠湾やルソン島に対する日本軍の急襲を全く予期できなかったこともあり、わずか2週間後の12月24日にはマッカーサーも米軍司令部もマニラからコレヒドール島へと撤退。米軍部隊の殆どがバターン半島(コレヒドール島から海を3.2km隔てた半島)に撤収し、マニラはマッカーサーにより無防備都市として宣言されます。これに伴い、コレヒドールの要塞化が急速に進められ、フィリピンでの太平洋戦争の主戦場は、マニラからコレヒドール島やバターン半島へと移ることになりました。

敗退と再奪還に至るまでのフィリピンとの運命共同体に

これ以降、コレヒドール島は戦時フィリピンの臨時首府となり、コレヒドール島の陥落と再奪還、マニラ市街戦など、フィリピンとマッカーサーは太平洋戦争下の運命共同体となっていきます。

参考文献

マッカーサーとフィリピンの深い関わりについては、以下の参考文献をお勧めいたします。


コレヒドール島やバターン半島の戦闘の詳細、オーストラリアに逃亡して以降の動向、日本のGHQ最高司令官としての取り組み、さらにはフィリピンの完全独立やケソン大統領の立場に理解と共感を示す一方で、必ずしも人格者とは言えず、自分の過失や責任を一切認めずに尽く他者に責任転嫁・自己弁護する頑迷な性格など、マッカーサーの人物像についてもかなり知ることができます。観光でコレヒドール島に行かれる方には、できれば同書を読まれてから観光されることをお勧めします。

フィリピンに限定はされませんが、特定のイデオロギーに偏らず、淡々と太平洋戦争全体の経緯を分かりやすくまとめた書籍としては、以下をお勧めいたします。

太平洋戦争〈上〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11


太平洋戦争〈下〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11