旅行先で太平洋戦争に関する話題が出たり、関連する観光スポットを訪れる際の参考になればと思い、太平洋戦争に関する3回目の歴史考察を書かせて頂きます。今回はハルノートとABCD包囲網について。

ハルノートは太平洋戦争開戦前に、アメリカのコーデル・ハル長官から日本に手渡された文書ですが、アメリカが加害者で日本は被害者だと唱える被害妄想的な史観を持つ人たちに論拠とされることの多い文書です。しかしハルノートは本当に日本を戦争に追い詰めるような内容だったのか。

ハルノートが日本を戦争に追い詰める過酷な内容というのは嘘

まず時系列的には、ハルノートが野村大使に手渡されたのは日本時間で1941年11月27日の午前7時頃であるのに対し、真珠湾の奇襲のために機動部隊がエトロフ島を出港したのは1941年11月26日の午前6時頃、つまりハルノートを手渡される24時間以上前に出航していたことになりますし、それ以前から開戦に向けた準備を進めているので、ハルノートでアメリカに挑発されたから開戦に踏み切ったということにはなりません。

またハルノートの内容も、「中国からの撤退」の要求事項はあっても、「満州国」の記述はなく、満州国からの撤退を要求しているわけでもないですし、むしろ最恵国待遇による通商条約、資産凍結の防止、為替の安定といった、日本側が望んでいた経済制裁解除の項目もあり、交渉の余地はいくらでもありました。

ABCD包囲網には日本を包囲して追い詰められるような力はない

当時日本とソ連は中立条約を締結していましたし、C(中国)では蒋介石も毛沢東も山間部の奥地へと追いやられ、日本軍が中国沿岸を封鎖している状態でした。国土が遥か遠方にあるA(アメリカ)、B(イギリス)、D(オランダ)だけではとても包囲などできませんし、シンガポールで開戦前にABD参謀会議が開かれたことはありますが、足並みが乱れて合意に至らずに終っています。

日本の陸海軍首脳部は開戦をずっと待ち侘びていた

実際のところ、1941年10月31日の参謀本部の部長会議と翌11月1日の連絡会議では、「即時対米交渉断念、開戦決意、12月初頭戦争発起。今後の対米交渉は偽装外交とする。」という方針が決定され、11月5日の昭和天皇への御前会議では、新版の「帝国国策遂行要領」とそれに基づく「対米英蘭帝国海軍作戦方針」と「帝国陸軍全般作戦計画」が発布され、次々に作戦準備が発令されました。つまり遅くとも11月5日のこの御前会議にて、事実上日本は開戦を決定していたことになります。

その後も日米の外交交渉が続けられはするものの、それは飽くまで表向きのポーズに過ぎず、陸海軍の首脳や将校たちが開戦を待ち侘び、外交の不成功を祈り続けたことは連日の機密戦争日誌でも明記されていますし、御前会議の決定を盾に戦争を煽る陸海軍首脳部が11月16日に開戦を躊躇する近衛文麿内閣を総辞職に追い込んでいることも考えれば、むしろ陸海軍首脳部が積極的に戦争を煽ったという方が正確でしょう。

自国の非を棚に上げて他国に責任転嫁をするのは恥の上塗り

アメリカ側に全く非がないなどと言うつもりはありませんが、日本側の当時の姿勢を棚に上げて、戦後70年以上も経った時期に未だに首相や閣僚や外務省官僚までもが被害妄想的なアメリカ悪玉論を振りかざすのは、様々な社会問題で現在でも恥と病理と生きづらさに満ち溢れているこの国に、さらに恥を上塗りするようなものではないかと思います。

参考文献

今回の記事の詳細についてさらに知りたい方には、下記の参考文献をお勧めいたします。

太平洋戦争〈上〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11


太平洋戦争〈下〉 (中公新書)
児島襄
中央公論新社
2014-07-11


現代史の争点 (文春文庫)
秦 郁彦
文藝春秋
2001-08




いずれも左右のイデオロギーを排し、中立的・客観的な立場から一次資料に基づく史実の積み重ねのみを丹念に行った良書で、歴史研究とはかくあるべき、こういう議論をしましょうというお手本のような内容なので、是非一読をお勧めいたします。