こんばんは。今回の記事も前回に引き続きポーランドについて。今回は首都ワルシャワについて、ナチスドイツに占領支配された首都としての見所に関する記事を書かせて頂きます。

ナチスドイツとソ連の間で締結された不可侵条約と秘密議定書(モロトフ・リッベントロップ協定)に基づき、1939年9月にナチスドイツとソ連の両方からほぼ同時にポーランドは軍事侵攻を受けました。しかし不可侵条約を破棄してナチスドイツがソ連に1941年6月に軍事侵攻したため、ここから第二次世界大戦終結までの4年間は、ポーランドとワルシャワは事実上ナチスドイツの支配下に置かれることになりました。

そしてクラクフ同様、ワルシャワもナチスドイツ傘下のポーランド総督府の監視下に置かれ、やがてはゲットーが設置され、44万5千人のユダヤ人が収容されることになりました。

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当時ゲットーがあった場所には、ワルシャワゲットー記念広場があり、ワルシャワゲットー蜂起を記念するゲットー英雄記念碑が設置されています。中央に描かれているのは、蜂起指導者のモルデハイ・アニエレヴィッツです。周囲には、ソ連と共産党の時代に国営のものとして建てられたと思われる、アパート群が広がっています。

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記念碑のすぐそばにワルシャワゲットーと蜂起に関する博物館がありましたが、今回は時間が足りず残念ながら展示を見ることができませんでした。

ポーランド国内の他のユダヤ人ゲットーと同様、ワルシャワゲットーの運営も、ユダヤ人の自治組織であるユダヤ人評議会や、評議会傘下のユダヤ人ゲットー警察によって担われました。ナチスドイツの事実上の傀儡と化したユダヤ人評議会運営下のワルシャワゲットーは、ユダヤ人だけで構成されながら貧富の差が極限まで広げられた歪な社会で、ごく一部の官僚・商人・投資家などが上流階級として君臨する一方で、大多数の住民が極貧の劣悪な居住環境下に置かれ、低賃金で強制労働を課せられるような社会でした。

ワルシャワゲットー内は、飢えと貧困と不衛生と病気が蔓延する社会でした。配給品だけではとても生きて行けず、食料は闇市で調達するしかありませんが、ごく一部の上流階級だけが暴騰する闇市価格でも食料を入手できる一方、大多数の貧困住民は餓死する他ないような状態でした。この傾向は1942年になるとさらに深刻になり、栄養失調と強制労働によって腸チフスや結核などの伝染病が蔓延し、8万3000人が死亡し、通りはホームレスや親を失った孤児たちで溢れかえることになりました。

世界から隔離された社会の内部で、さらにユダヤ人同士を互いに分裂させるという、ゲットー社会はまさに、ナチスドイツによる人類史上最悪の人道犯罪の先駆けともいえるひどい社会でした。そして他のゲットーと同様、ワルシャワゲットーもまた単なるユダヤ人の隔離場所という位置づけを超えて、アウシュビッツその他の絶滅収容所にユダヤ人を強制連行するための、中継地としての役割を担うようになります。

この絶滅収容所への中継地としての役割は、ナチスドイツの傀儡と化したユダヤ人評議会やユダヤ人ゲットー警察の下で秘密裏に行われていました。彼らはまさに同胞を売ったわけです。しかし評議会の中にも良心の呵責から自殺する人や、命令を拒否してナチスに銃殺される人もおり、そんな状況下では秘密は到底守り通せるわけもなく、絶滅収容所の噂は広まり、やがてゲットーの中に誕生した多数の戦闘的な抵抗組織によって、ワルシャワゲットー蜂起が起こされることになります。

ゲットー蜂起はまず、ユダヤ人評議会やユダヤ人ゲットー警察へのテロと暗殺から始まり、やがて標的はドイツの警察や軍隊にも及ぶようになります。1942年の間は頑強な抵抗によりドイツ軍が撃退されるものの、翌1943年にはナチスドイツの武装親衛隊SSによる報復が始まり、焦土作戦によってゲットーの建物1つ1つが全て焼き払われ、ゲットーは文字通り火の海にされました。発煙筒や手榴弾を手当たり次第に投げ込み、ユダヤ人たちが壕や下水道から出てきたところを次々に殺害するという、残忍さと冷徹さを徹底したやり方でした。結局、指導者であるモルデハイ・アニエレヴィッツが追い詰められた末に自殺し、蜂起は容赦なく鎮圧されました。

このゲットー蜂起の鎮圧で数千人がナチスドイツに殺害され、5万6000人が捕虜となり、そのうちの7千人がさらに銃殺され、残りの人々はアウシュビッツその他の絶滅収容所送りとなりました。

ワルシャワゲットーでもアウシュビッツでも、ユダヤの人々や占領に反対する人々を無慈悲に大量虐殺したナチスドイツ。しかしそれでも抵抗が完全になくなることはなく、今度は1944年8月、ワルシャワ市民による一斉蜂起が起こりました。

同時期、ナチスドイツ軍はソ連軍との戦闘で敗退を重ねており、このワルシャワ蜂起はナチスドイツが追い込まれたとみなされた上での蜂起でした。ポーランド亡命政府の指導の下でのワルシャワ市民による一斉蜂起により、いったんはナチスドイツ軍が追い出されて市街地が解放されるものの、その後はワルシャワゲットー蜂起と同様、ナチスドイツ軍による無慈悲な鎮圧と虐殺が待っていました。鎮圧時の無差別攻撃によって22万人のワルシャワ市民が虐殺され、またワルシャワの市街は徹底的に破壊され、ほぼ廃墟にされました。現在のワルシャワの旧市街は、廃墟にされた状態から無名の市民たちの努力によって精緻に復興されたものです。

先のゲットー蜂起の記念碑からさほど離れていない場所に、ワルシャワ蜂起の記念碑もあります。
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背後にあるのはワルシャワ蜂起の博物館です。

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この博物館も到着時には開館時間を過ぎてしまい、かつポーランド滞在最終日だったため、残念ながら見学ができませんでした。

ワルシャワ蜂起に関しては、アンジェイ・ワイダ監督の映画「地下水道」や、ロマン・ポランスキー監督のオスカー受賞作の映画「戦場のピアニスト」などにも描かれています。

地下水道 [DVD]
テレサ・イゼウスカ
紀伊國屋書店
2012-08-25


戦場のピアニスト [DVD]
エイドリアン・ブロディ
アミューズソフトエンタテインメント
2003-08-22



どちらもかなり重い内容ですので、興味があれば覚悟した上でご鑑賞ください。

さて、この蜂起の時、ソ連はポーランド亡命政府やワルシャワ市民への支援を約束しておきながら、いざ蜂起となると約束を反故にし、ワルシャワ市民たちがナチスドイツ軍の無差別攻撃に晒された時にも一切助けずにただ傍観し、それどころかワルシャワ市民へのイギリスやフランスの援助活動を妨害しました。さらには廃墟になったワルシャワをソ連は占領し、国内でなおも果敢にナチスドイツへのレジスタンスを続けていた非共産党系の人たちを逮捕や処刑によって一掃して民主主義政権の芽を完全に摘み取り、ルブリン委員会による共産党系暫定政府を力づくで押し付けて衛星国化しました。横暴としか言い様のないやり方ですが、それでいて自分たちを戦後半世紀に渡って解放者と称し、対外的にもあたかもポーランドの解放者のごとく振る舞ってきたわけですから、全くもって呆れるしかありません。