こんにちは。朝方雨が降ったせいか少し涼しいですね。秋の涼しさの到来でしょうか。それとも単に関東地方が一時的に雨に見舞われただけなのか。天気予報だと関東では今週一杯雨のようですが。

かなり昔に見た映画に、「全ての悪を洗い流すように、雨は何日にも渡って降り続いた」という台詞がありました。もし雨が何日も降り続いているのが表題のアウシュビッツであれば、本当にそう思えてくるかもしれません。あの場所には、うまく言葉で言い表せませんが、得体の知れない、絶対的な悪があります。

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アウシュビッツは現存の場所が2か所あるため、今回と次回に分けて記事を書かせて頂こうと思います。扱う場所が場所なので、今回と次回の記事は全く楽しいものではありません。むしろ陰鬱なだけで、読まれる方によっては苦痛と気持ち悪さしか感じられないかもしれません。以前の記事はどれも一応、旅の楽しみを日本にいながらにして感じ取って頂ければと思って書かせて頂きました。今回はそういう明るい記事とは全く種類が異なるので、せっかく閲覧してくださりながら恐縮ですが、もしそういう気持ちになるのが嫌な方は、今回の記事をスルーして頂くことをお薦めします。逆にアウシュビッツのような場所に何かしらの理由で興味がある方は、ある種の覚悟を持って続きを読んで頂ければ幸いです。またその方々には、アウシュビッツが単に博物館や世界遺産であるだけでなく、虐殺された無数の犠牲者の冥福を祈る、墓石のない墓地であることを意識しながら読んで頂ければ幸いです。

ナチスドイツにより、ユダヤ人を絶滅させるために建設・拡張された、かつての人類最悪の強制収容所・アウシュビッツ。戦時下の占領中のポーランドには、全国に6か所建設されました。今も残っている2つの収容所跡のうち、第1収容所の方が、オシフィエンチムという小さな田舎町にあります。以下では、アウシュビッツ第1収容所をアウシュビッツ、第2収容所をビルケナウと呼ばせて頂きます。

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オシフィエンチムの鉄道発着駅です。かつての悪夢の街のイメージを払拭するためか、駅の看板に平和都市宣言が掲げられています。

アウシュビッツまでは、世界遺産都市として名高い古都クラクフから、電車かバスで移動することになります。ですが電車だと本数が少ない上にオシフィエンチム駅まで2時間かかり、かつアウシュビッツまでまた20分ほど歩かねばなりません。それに対してバスはクラクフからの発着本数が比較的多く、かつダイレクトにアウシュビッツまで行けるので、初めて訪れる方や時間を有効利用されたい方は、バスを利用されることをお薦めします。

まず、オシフィエンチムの街の写真を以下適当に。

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オシフィエンチムの街自体は廃墟でも博物館でもなく、人口が少ないとは言え、人々が生活を営むごく普通の田舎町であり、アウシュビッツを目の当たりにしない限り、あの悪夢があった街という実感が湧きづらいです。まあでも、何となく暗い雰囲気の街であることは確かですが。

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駅から徒歩20分ほどで、アウシュビッツの受付と玄関のある建物に到着します。博物館内はガイドツアーでのみ見学でき、参加者によって英語、ドイツ語、ポーランド語などの言語別のツアーに分かれています。博物館内をツアーで見学すれば、あの時代にあの悪が、確かにここに巣食っていたということがはっきりと分かります。

ナチスドイツがポーランドに侵略し、第2次世界大戦が始まったのは1939年9月1日。それまでもドイツ国内ではユダヤ人に対する公職追放や商品のボイコット、突撃隊による街頭での暴力やリンチ殺人、迫害を正当化する悪法の制定、国外追放の強制などが引き起こされ、ヒトラーとナチスの狂信的で過激な反ユダヤ主義は国内外に広く知られていました。また総統になる前からのヒトラーの野望は、他国に侵略して領土を拡張してでも、ユダヤ人やロマ等の異民族を排除してドイツ民族だけの単一国家を樹立・拡大させたいというもので、第1次世界大戦の敗北時に、ベルサイユ条約によってドイツから領土の一部を移したポーランドは、侵略の格好の標的でした。

アウシュビッツが誕生したのはそんな第2次世界大戦とポーランド占領の最中である、1940年6月14日。オシフィエンチムを候補地に推したのは、通称SSことナチス親衛隊と、当時のSSの最高司令官だったハインリヒ・ヒムラーです。戦前にポーランド陸軍の宿営地があったために強制収容所としての設備がある程度整っていたこと、市街地から距離があって拡張が容易な一方で世界の目が届きにくいこと、鉄道輸送の合流点であり、通信設備が既に整っていたことなどが、候補地として推された理由だとされ、ルドルフ・ヘスがアウシュビッツの初代所長となりました。

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ガイドツアーの時間となったため、入口から博物館内に入ります。入口横の木造の建物は、SSの詰所です。

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入口には、「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由への道)」とドイツ語で書かれています。しかし実際には収容者たちが自由になることなどなく、彼らは毎日12時間、夏季にはそれ以上の時間を死ぬまで働かされました。よく見ると「ARBEIT」の「B」の文字が上下逆さまになっており、これを作らされた収容者の、せめてもの抵抗の証だと言われています。

元々アウシュビッツはナチスドイツに抵抗を続けていた、ポーランド人の政治犯たちを一時的に収容するための施設でした。しかし年月が経つにつれて収容所内のバラックの棟数や規模が拡大し、収容される人たちもポーランド人、ハンガリー人、ユーゴスラビア人、チェコスロヴァキア人、ソ連軍からの捕虜、ユダヤ人、ロマ、同性愛者、重病患者、精神障害患者、共産主義者と多岐にわたるようになり、連行される無辜の市民たちの国籍は20か国以上に及ぶものとなり、次第に連行当初から収容者を家族や親族ごと抹殺する、ジェノサイドを目論んだ絶滅収容所としての性格を帯びていきます。最終的に収容所は28棟のバラックが立ち並び、収容者数は平均1万3000人~1万6000人の間で推移し、最大時には2万人にも及ぶようになりました。

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入口を抜けると、同じような雰囲気のレンガ造りのバラックが立ち並んでいます。

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入口直後のこの通りでは、収容者で構成された複数の楽団が、毎朝強制労働に向かう他の収容者たちが整列して歩くよう、行進曲を演奏させられていました。

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入口から1つ目の十字路から見たバラック通り。一見同じ造りや雰囲気のバラックですが、各バラックには番号が振られ、どの号棟かによって収容者のタイプが分けられていました。例えば、10号棟は生体実験にかけられる人々、11号棟は処刑されることが決定した人々、13号棟はロマ、14号棟はソ連軍からの捕虜、15号棟はポーランド人、18号棟はハンガリー人、27号棟はユダヤ人といった分け方です。なお、現在の4号棟と5号棟にはナチスの絶滅計画の展示、6号棟と7号棟には収容所生活の展示がなされています。

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4号棟内に展示された、家畜や貨物を運搬する車両に無造作に大勢押し込まれて輸送され、到着後にアウシュビッツで生死の選別(労働者として生存するか、クレマトリウム送りになるか)をされた人々の写真です。

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犠牲になった方々の骨壺を載せた慰霊碑も4号棟にあります。アウシュビッツとビルケナウでの犠牲者数は、約110万人とされています。犠牲者の内訳としては、圧倒的に多い犠牲者はユダヤ人で、収容者の90%を占める96万5000人、続いてポーランド人が7万5000人、ロマが2万1000人、ソ連軍からの捕虜が1万5000人、その他が1万5000人とされています。

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同じ4号棟の別の展示室には、ガス室と焼却炉の機能を一体化させたクレマトリウム(死の工場)のミニチュア模型が展示されています。クレマトリウムは、設計から施工に至るまで、収容所建設部の発注を受けた複数の民間企業が引き受け、当時の最新技術を導入して建設していました。竣工報告書や建設費見積書などの、建設会社の資料も同室に展示されています。

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こちらは4号棟の同じ展示室内にある、クレマトリウムで用いられていた、ツィクロンBと呼ばれる青酸ガスの一種の空き容器の山積みです。ツィクロンBは元々は殺虫剤として、フランクフルトのデグサ社が製造し、ハンブルグのテスタ社が販売していたもので、本来は船、ドック、倉庫、工場、鉄道会社などの動物や害虫の駆除に使われていました。しかし第二次世界大戦勃発とともに、当初は収容所の害虫駆除のために需要が急増し、やがては使用目的が変わり、クレマトリウムでの大量殺戮に用いられるようになりました。当時の見積書や、受け取りのための通行許可証なども同展示室内に残っていますが、大量殺戮が発覚しないよう直接的な表現を避けています。

その他、4号棟と5号棟には、犠牲者の遺品が山積みにされ、髪の毛や遺骨もあるのですが(髪の毛や遺骨は撮影が禁止されています)、さすがに撮影するのが躊躇われたので、写真は割愛させて頂きます。また、6号棟と7号棟には犠牲者1人1人の写真が掲載されていますが、それも撮影が躊躇われたので、同じく写真は割愛させて頂きます。

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4号棟~7号棟の見学後、処刑される直前の人たちが収容された11号棟へと向かいます。

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処刑される直前の人たちの生活部屋が当時のまま保存されています。

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11号棟の庭は処刑場となっており、犠牲者を悼む花が手向けられています。

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11号棟のすぐそばには有刺鉄線と監視塔があります。当時の有刺鉄線には高圧電流が流れ、脱走を図ろうとすれば感電死するようになっていました。監視塔より後ろにある建物は、ツィクロンBや収容者からの略奪品を保管していた倉庫です。

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こちらは当時の洗濯場です。

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11号棟見学後、洗濯場の横を通り、再びツアーが続きます。

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煙突が何本も備わったこちらの建物は、一時的にだけ収容者たちを生かして働かせるための食堂です。最小のコストで最大の労働力を確保しようと、ナチスはカロリー計算まで行っていました。屋外の過酷な建設作業で殆どの収容者が命を落とす中、危険を冒してでもつまみ食いにありつける食堂は、収容者にとって最も人気のある仕事でした。

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ポプラ並木道と有刺鉄線を通り抜け、SSの管理棟や病院だった建物の横を通り、クレマトリウムへと向かいます。

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アウシュビッツにある第1クレマトリウムです。第二次大戦にてナチスの敗北が濃厚となった終戦間際に、向かいのSS病院の医薬品倉庫かつ職員用防空壕となり、その際に焼却炉や煙突が解体されたので、現在の焼却炉や煙突は当時の設計図に基づいて戦後に復元されたものです。はっきり建物の形で残されて
いるクレマトリウムはこの1つだけです。ビルケナウにはかつて、第2~第5の4つのクレマトリウムがありました。

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内部にある金属製部品や死体置場、建物そのものは当時のままです。

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最後にSSガレージの横を通り抜けて

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受付のある元の建物(当時は収容者の受入所)に戻り、ツアーは終了です。

アウシュビッツで亡くなられた全ての方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

それにしても、かつての恐ろしい絶滅収容所は、一見すると郊外の住宅街とポプラ並木の雰囲気にしか見えません。しかし郊外の住宅のように、バラックを見て立派で頑丈そうな建物だなどと感心することは禁物です。バラックの赤レンガは収容者が1つ1つ手作業で積み上げたもので、よく見るとバラックの1階と2階で所々レンガの色が違うことに気付きます。それは戦前からあったものと、収容者が強制労働で造らされたものとの違いを示しています。この建設作業は強制労働の中で最も過酷できついものであり、わずか1か月~3か月で殆どの収容者が命を落としたとされています。

ここで起きた悪夢とのギャップが大きく、それ故にアウシュビッツは不気味さが際立っています。私は決して迷信を抱く人間ではなく、幽霊や霊魂の存在に対しても乾いた考えを持っていますが、このアウシュビッツには目には見えず臭いも感じないものの、ある種の死の気配のようなものがずっとのしかかっているような感覚を覚えます。

ここは20世紀の中でも際立った絶対的な悪が遂行された、死の気配だけが漂い重くのしかかる、本物の負の世界遺産です。仮にここへの居住許可が法律で制定されたとしても(まず有り得ないですが)、ここに住みたいと思う人などいないでしょうし、何度も訪れたいと思えるような場所でもありません。まさに人類最悪の人道犯罪の現場としての意味しかない場所で、私もまた来たいとは正直思いませんが、ここで起きた歴史を知り、後世に伝え、なぜこのようなことが起きたのか検討し、虐殺や迫害の歴史をどこかで断ち切るために、アウシュビッツは忘れてはならない、残しておかなければならない負の世界遺産だと言えます。

ビルケナウという村にある、アウシュビッツの第2収容所もそういう恐ろしい場所ですが、ビルケナウについては次回の記事とさせて頂きます。残酷で陰鬱な内容にもかかわらず、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。